佐藤です。
今回は、レシピの紹介ではないですが、
私がブログで料理のことを伝えようと思ったきっかけをお話しします。
きっかけは、いくつかあるのですが”一番”のキッカケになった話しになります。
どんな思いで私がブログを始めようと思ったのかがご理解頂けると思います。
で、これは、このブログ以前に書いていた初めてのブログのプロフィールの内容です。
現在のこのブログは独身男性向けに書いていますが、当時のブログは、主婦の方に向けてレシピを書いていたので、
”主婦の方に料理のことを伝えようと…”
という書き方をしています。
また、文章がヘタで読みにくいですがご理解下さますよう、よろしくお願いします。
(今もたいして上手い文章ではないですが…)
ーーーーここからーーーー
岡山県岡山市出身
1973年4月17日生まれ
佐藤 周生
趣味は…
・21~35歳までウエイトトレーニングをやっていましたが腰を痛めてから全くやってません…
パワーリフティングという競技では優勝経験もあります。
・音楽も好きでよく聴きます。
マイケルジャクソンやMCハマーが全盛期の世代なのでダンスミュージックなどPOPな楽曲が好きです。
・料理も家でマメに作るので趣味といってもいいかもしれません。
食べ物の好き嫌い…
基本的に無いのですが、極端にすっぱい食べ物は苦手です
(レモンのまるかじりとか)
■私の履歴書
私は気が弱く勉強も嫌い、けんかも嫌いでおとなしい子供でした。
物を作ること、絵を描くことが得意で中学生の時にある絵画のコンクールで全校生徒の中で私一人、賞をもらったことがあります。
そんなじみな特技を持っていた反面、体を動かすことも嫌いではなかったので小学校3年から6年生まで剣道に励んでいました。
中学では好きな絵が描ける美術部に。
そして、高校は小学生の時に決めていた料理人(当時は洋食に進むつもりでした)になるため、料理専科のある高校へ進学し調理師免許を取得して卒業しました。
就職活動に入る頃に和食の魅力に目覚め
”料理を学ぶなら大阪!”
と学校紹介の大正創業、和食の老舗料理店に就職。
基本を身に付けた後、他店でも勉強したくなり割烹料理、創作料理、居酒屋など様々な店で働き、経営も学びながら20年以上の経験を積んできました。
ここからは、なぜ私が主婦の方に料理のことを伝えようと思ったのかをお話します。
「小学生でできるようになってしまった」
私は、幼少の頃から弟とともに逃れられるなら逃れたい家の手伝いをしていました。
いや、させられていました…
風呂そうじ、自分たちの靴洗い、庭そうじなどなど…
今思えば、弟より私の方が仕事量が多かったような気がします。
やたらと手伝わされて…
こういう時は「先に生まれると損だな」と小学生なり思ってました。
私は”重度のめんどくさがり”
嫌で嫌でダラダラやって「めんどくさい!」と逃げ出そうものなら追っかけられて捕まったら最後、母親の機関銃のような説教攻撃に遭う始末です。
しかし、この手伝いだけは違いました。
お婆ちゃん直伝の母親の料理はいつも美味しく、料理に興味をもっていた私は母親が作るところをよく見ていました。
だからなのか、料理の手伝いを任されても、嫌ではなく初めてやってみる作業でもとすんなりとできていました。
例えば…
突然、母親から茹でたじゃが芋と人参、塩もみした胡瓜の輪切り、玉葱のスライスを渡され、
母、「これ、ポテトサラダにしといてぇ」
私、「ポテトサラダぁ!?やったこと無いよ!」
母、「そうだった?」
私、「あ~でもできると思う…」
母、「じゃぁ!お願い!」
という感じ。
じゃが芋は、つぶして胡瓜と玉葱は水で洗い絞って、ボールに材料を全部入れて、塩とコショウかけてマヨネーズを加えて混ぜて…
ほとんど迷うことなくスムーズにできてしまいました。
母親に味見をして貰い、
「うん!美味しい美味しい、上手にできたね!」
こんな感じで毎回褒められるのでうれしくなった私は料理の手伝いだけは自分から進んでやりました。
それから、母親がいつも作る料理に挑戦し、何度も作っているうちに、小学校卒業前には、
カレーライス、玉子焼き、鶏の唐揚げ、豚カツなど
家庭で作る料理は、だいたいできるようになっていました。
母親に
「将来はコックさんだね」
と言われ調子にのった私は、
「将来は調理師になる!」
と小学生で決めてしまいました。
料理ができるようになって認められるとすごく嬉かったのですが…
これが後々、大変な思いをすることになります。
中学校へ進み、2年生になったころです。
父親のお金の使い方や母親の仕事のことで二人は夜になると喧嘩するようになりました。
私が寝ている夜中にも言い合いをするほどエスカレート…
うるさくて目が覚め、
「うるさいなぁ!」
なんて言ってしまった時は、
「いいから寝なさいッ!!」
と、うるさくて目が覚めるのに逆ギレされ意味が分からず怒られていました。
これが何日も続き、手で耳をふさいでうるさいのを我慢して嫌な思いをしながら寝ていたのを今でもよく憶えています。
「ついこの間まで仲良かったのに…」
そして、来るべき日が来ました。
ある晩、母親がいない時間に父親は言いました、
父親「母さんは…家を出て行くがいいか?」
私「………」
悲しくなり涙が出そうでした。
歯をくいしばりこらえました。
父親は離婚には反対でしたが、”自分にも非がある”と思っていたのかどうかは分かりませんが、最終決断を私に迫ってきました。
私は、父親にも非があると分かっていたので、母親には好きなようにさせてあげたくて、あの喧嘩がなくなる方がいいと思い、本当は反対でしたが離婚に同意しました。
間もなくして母親は家を出ました。
私と弟のことは気になっていたと思います。
なので、それほど遠くには引っ越さず、自転車で行けばすぐに会えることができました。
私が大変な思いをしたのはここからでした。
今まで母親がやってくれていたことを、自分たちでやらなければなりません。
そうじ、洗濯、ごはんを作る、その他もろもろ…
誰でもできるそうじ、洗濯は交代でやればいいとして毎日の食事です。
父親は、簡単な料理しかできません。
弟ができるわけありません。
おのずと料理を作れる私が毎日の夕食を作る破目になったわけです。
作るのは、夕食だけですが学校から帰って献立を考え、買い物に行って、料理に取り掛かる…
中学生の私には毎日の事となると結構大変でした。
初めは自分の食べたいものが作れると
「今日は豚カツ食べてぇ!」
威勢よく、はりきって作って、父親と弟に
「美味しい!」
と言わせながら楽しんでました。
しかし”重病めんどくさがり”が簡単に治るはずもなく、たったの1ヶ月ほどで夕食を作ることがめんどくさくなりました。
そして、月日を重ねるごとに苦痛に思うようになって変っていきました。
できる料理の種類も限られている、でも同じ料理ばかり食べたくない。
「何、作ったらいいんか分からん!」
「もう、やりたくない!……」
やる気は無くなり、放棄して友達と遅くまで遊ぶことも多々ありました。
そんな時には、やさしい父親はたまに夕食を作ってくれました。
ちょっと気持ちは楽になりますがそれでも毎日作らなければと思うと食べたい料理が作れる快感を忘れるくらい苦痛でたまりませんでした。
頻繁に外食できるほど裕福でもなく…
惣菜ばかりを買えば高くつく…
何も食べないわけにもいかない…
そう考えていくとやっぱり家で作るのが一番経済的で、まともな料理ができるのは私だけ。
「しょうがないやるしかないか…」
半分諦めの覚悟を決め、また作り始める。
書店に行って立ち読みで、料理の本をパラパラっと見て気に入った料理があれば、憶えて家で試してみる。
そんなことも始めて、ちょっとやる気になって作るのですが、数週間経つとやっぱりめんどくさくなってきます。
この繰り返しでした。
ですが、以前に比べるとましになり、めんどくさくなっても
「やるしかないか」という覚悟があったからか、
「簡単でもいいから作ろう」と奮起するようになり、放棄することほとんどなくなりました。
後々になってですが、母親の苦労や大変さがよく分かりました。
そんな生活を繰り返しながら高校へ進学小学生の時に決めていた調理師になるため料理専科のある高校へ行きました。
週に合計8時間ある調理の実習で憶えた、今まで作ったことない料理をおうちの夕食に取り入れ、さらにできるメニューが増えると以前ほど何を作るか悩まずにすむようになっていきました。
楽しんで作ったり、嫌々作ったりしながら、結局、私は中学2年から高校卒業するまでの5年間夕食を作り続けました。
高校卒業後、和食料理人めざし岡山を離れ大阪へ。
老舗和食料理店に就職して7年じっくり基本を積んだあと、
「他の店でも勉強したい」
と思い1ランク上の和食店でさらに修行、いろいろあって転々としながら、10年以上経ち一通りの知識、技術を身に付け給料もそれなりに貰えるようになっていました。
30歳過ぎた頃、当時流行っていた創作料理に興味がわき、和風創作料理店に勤め始めました。
その店はランチ(昼)の営業が無く、夜のみの営業で午後2時が出勤時間です。
こういったお店で働くのは初めてで、午前中に目が覚めてしまい、空いた時間が勿体無いと思うようになりました。
この時間を利用して働けば、ちょっとした小遣い稼ぎができると考えた私は週4日ほど自宅から近いホームセンターでアルバイトを初めました。
そのアルバイト先はパートの主婦の方が多く働いていました。
ホームセンターの仕事にもなれた頃、パートの方とよく話をするようになり、私が調理師ということもあって料理の話題で盛り上がることもしばしばありました。
主婦のみなさんはそういう話題の最後に決まってこう言うのです。
「毎日、夕食考えんのほんま大変やねん…」
「佐藤さんは、いろんな料理作れるからええわなぁ」
「あ~もう、ほんま今日の晩、何作ろ…」
と…
「毎回同じこと言うんやからやっぱり苦労してるんやな…」
私は、ふと思い出しました。
夕食を作り続けた5年間の事を…
・あの時の苦労や大変さを思い出すと主婦のみなさんの気持ちが痛いほどよく分かりました。
「料理のこと、主婦のみなさんに教えてあげれば役にたてるんちゃうか?…」
「あ~でも…」
「ベテランの主婦の方ばかり。
だれでもやってるような家庭料理を教えてあげてもしゃあないし、もっと特別な料理の方がええやろ…
いや…そんなん教えたら作るの余計大変やわ」
と、いろんなこと考え、気遣いしすぎて私は、料理の話題になっても聞かれたこと以外は教えてあげることはありませんでした。
今、思えば…
どんな難しい料理も少しやり方を変えれば家庭で作ることもできます。
頭が硬かったのことと、まだまだ経験不足で、変なプライドも邪魔していたような気がします。
しかし、毎日夕食を作る大変さが身に沁みてわかっていたので、
「主婦のみなさんの役にたちたい」
という思いは心の奥にずっと残っていました。
それから数年後、スピードを要求される店で店長として働くようになり、
「いかに速く効率的に料理を作るか」
ということを考えさせられる仕事に関わったことで料理の応用の幅が大きく広がりました。
例えば、居酒屋風の焼鳥屋さんにある一品料理で
「鶏肉の塩ダレ焼き」を中華料理の調理法で作るとか。
普通なら肉をフライパンで焼いて熱を通しますが、この方法だと熱が中まで通るまで時間がかかるので、中華鍋で油で揚げることで速く熱を通せます。
油をこして再び中華鍋を熱して肉に焼き目だけをつけ、塩ダレをザッと絡めてアッツアツに熱した鉄板に盛り付ける。
”ジュゥゥ~!!”という音で食欲がそそられます。
この店では、店長になったことでいろんなことを考えさせられました。
気の弱い私は、メンタル面で自分を変えたいと、若い時から自己啓発、成功哲学の勉強もしていました。
総額90万円した教材も購入したことがあります。
これらが役にたったのか
”今すぐ行動しよう!”
とか
”人に動いて貰いたければ自分がして欲しいように人にもしてあげる”
などできるだけ実践していました。
まだまだ発展途上ですが少し考え方が変わり、頭も少し柔らかくなっていったように思います。
大阪での22年の経験が今の私を創ってくれました。
それから、家の事情で岡山に帰ることになりました。
1ヶ月ほど何もしてなかったので時間の余裕があった私は大阪の22年の人生を振り返って、回想しながらゆっくり今後の事を考えました。
「何かやりたいんやけどなぁ…」
その瞬間に思い出しました。
ホームセンターでアルバイトしていた時のことを。
”中学、高校と5年間経験した毎日夕食を作るのに大変だった思いと同じ思いをしている主婦の方の役に立ちたい!”
心が高ぶりました。
「あっそうや!”料理の知識、技術、方法”全部教えてしまおう!」
「そしたら役に立てるはずや!ケチケチしてもしゃーない」
「今なら出来る!」
これが22年かけて学んだ料理の知識、技術、方法すべてを”主婦のみなさんに伝えよう!”と決めたきっかけです。
”伝える、そしてできるようになってもらう”
ということは簡単なことではないですが続けて行こうと思いっています。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
佐藤 周生
追伸:
ブログを始めるきっかけとなった理由は、あと2つあります。
これを読むと腹黒い私の正体がばれて殺したくなります…
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